ファンタスティック映画主婦

雑食つまみ食い系映画感想ブログ

太陽【映画・ネタバレ感想】昼と夜、本能と理性、貧と富★★★(3.0)

スポンサーリンク

太陽

あらすじ

21世紀初頭、謎のウイルスにより人類の大半が死滅した。元々ウイルスの抗体を持っていた人間は新人類「ノクス」と呼ばれ、高い知能と強い生命力を持つ一方、太陽の光を浴びると死んでしまうため、活動は夜にのみに制限されている。一方ウイルスに耐性のない旧人類は「キュリオ」と呼ばれ、「ノクス」に支配されながら貧しい生活を余儀なくされている。

キュリオの村で暮らす鉄彦(神木隆之介)は、ノクスの裕福な暮らしに憧れ、駐在員の森繁(古川雄輝)と友情を育もうとする。一方、鉄彦の幼馴染、結(門脇麦)は母が自分を捨ててノクスとなったことを未だ許せずにいたが…。

 

 

 

神木隆之介くん、門脇麦ちゃん主演、監督は「サイタマノラッパー」の入江悠。原作は劇団「イキウメ」の舞台だそうです。

「昼と夜に分断された人類」というSF的設定がいかにも演劇的で、おそらく舞台ならば両極なものの象徴としてうまく機能する類のものではあるのでしょうが、映画に落とし込んだ時にどうしてもその設定の甘さが目立ってしまっていたようにわたしは感じました。

設定そのものは暗喩と寓話の産物なのだし、重要視する必要はないとわかっていながらも、事あるごとに疑問が湧いてきて物語に集中できなかったのです。

ノクスの知能が高いなら日光対策なんて簡単にできるのでは?とか、旧人類の中にも感染してないだけで抗体のある人間はいるんだよね?とか、そもそもどういった経緯でノクスのコミュニティは形成されていったのか?とか。自分なりに納得させる答えを出しながら映画を観るのは、なかなかに骨が折れます(スルーしていいはずなのだけれども…ついついね)。

ただ、暗がりで生活している方が支配者で、陽の下で暮らしている方が支配されている、という発想の逆転感はなかなか面白いものがありました。普通、「日陰者」とか「陽の当たらない生活」ってネガティブな印象だと思うのだけれど、今作ではそっちのほうが文化的で裕福だというのがね、意外性があります。

それから、生まれた環境や遺伝子によって運命が決められている若者たち、というSF設定は『ダカタ』や『わたしを離さないで』なんかを彷彿とさせるし、貧困の連鎖という意味ではとてもタイムリーなテーマでもある。 

 

この、二つの人類の設定が内包しているのは、差別と被差別、支配と被支配、都市と地方、富裕と貧困、という現実にある格差の対立だと思われます。その対立を埋めるのは暴力ではなく、結局個々の接触によるものである、集団と集団では結局相容れないものでも個々の関係性ならば友好関係を築くことは可能である…というのが今作のメッセージなのかな、とわたしは思ったのですがね。どうかな。

うーん、だとしたらより一層こんな回りくどい設定にしなくともよかったのでは?という気がしてくるのですが…。

 

役者陣の演技は、神木くんのオーバーアクトはちょっと引きますが(まともな教育を受けていない&元々キュリオは感情的という設定なのであえてじたばたしている感じなのかな?)、古舘寛治の冴えない父親感と村上淳の粗暴ぶりは納得の安定感(笑)だし、門脇麦ちゃんは雰囲気からもう、ああなるだろうな、という予想を裏切らず、中村優子さんは出てきた瞬間からすでに不幸オーラが滲み出ていて、女性二人はともにフラグが立ちまくりなのであります。

ノクス側の皆さんは、なんか楽しそうでしたね。

 

 

 

以下ネタバレあり。

 

 

 

 

 

ノクスが不気味過ぎる

新人類のノクスは合理主義的で、ある種の冷淡さを持ち、共感や想像と言った人間らしい感情が欠落しているように描かれています。それを彼らは「理性で自分をコントロールできる」と言っていますが、激昂することもなければ悲しむこともないわけで、常に穏やかな表情(無表情でなく若干にこやかなのがまた不気味)をしています。また、陽に当たらないせいで肌は白い。

顔色一つ変えず「夫とセックスの相性がよくないのかしら」「他の人ともセックスしているんでしょう?」「ええ、してるわ」なんてしれっと性的な会話も出来てしまう。

結と母親が再会した際も、結は悲しみとも怒りとも言えない涙を流すのに対し、ノクスとなった結の母親は十数年ぶりに娘と会ったのに涙を見せることもことさら喜ぶこともない。でも別に、そんな自分たちが欠落しているなんて彼らは思ってないし、むしろ「自分の完全な支配者だ」などと言えちゃうくらい完璧だと思ってるんでしょうね。

そんなノクスの不気味さが顕著に表れるのが、ラストにノクス化した結が鉄彦と父親に会うシーン。結はあれだけ苦しんだり悩んだりしたことも忘れたような「スッキリとした」表情で、あっけらかんと「みんなが幸せに暮らせるにはどうしたらいいか考えるよ」などと言ってのける。また、父親との別れの際も彼の流す涙の理由を理解することなく、わだかまりのあったはずの母親との生活も難なく受け入れてしまうのです。 

今作ではそんな彼らを悪とも善とも言い切りません。ですが、結の変貌振りを見た鉄彦の表情から、彼はおそらく、もうノクスになりたいとは思わなくなっただろうとわたしは感じました。

 

一方、ノクスでありながらキュリオの鉄彦と友人になる森繁は、大声を上げたり、怒ったような顔をしたり、人間らしい表情を見せています。これは抗体の数値や遺伝子的なものが関係しているのかしら?それとも鉄彦との関わり方の中で変わって行ったのかな?後者なのだとしたら、二人の交流をもう少し深く掘り下げて欲しかった気もします。…いや、別に神木くんと古川くんのいちゃいちゃを見たいとかそういうんじゃないよ!!

 

 

差別され続けることでそれを受け入れてしまう悪循環

鶴見辰吾演じるノクスの役人の「キュリオが我々より劣っているという感覚が拭えない」と いう発言が、もう差別する側の心理そのものを表していますよね。

人種、性的指向、職業、居住区。あらゆる差別の根底には「相手が自分より劣っている」という誤った認識から生じるものです。

そして一番問題なのは、その差別を受け続けることによって、差別される側も自分自身を差別していくという悪循環に陥ること。鉄彦は「俺が頭が悪いのはキュリオだからだ」と言っていました。母親にも「どうしてノクスに生まなかったんだよ!」と憤っていましたね。

生まれた環境が悪い、親が悪い、社会が悪い…でも本当に悪いのは、それを甘んじて受け入れてしまっている自分たちの方ではないのか?

そのことに気づいたからこそ、鉄彦は森繁と旅に出ることができたのだと思います。自分の出生や性質はアイデンティティとして受け入れる。でもそれを他者と比べたり、自らを卑下したりはしない。

そして、そんな自分を認めてくれる存在がいてくれること。それが差別を克服する中で特に大事なことなのかもしれません。

 

 

納得のいかなかったところ

一番不満だったのは、結がノクスになることに絶望してレイプした村長の息子がなんのお咎めなしだったこと。結の父親にちょっと殴られたくらいでおしまいなのにはさすがに納得いかなかったです。体育座りでションボリしたって反省したことにはなんねーぞ!!

 

全ての元凶である村上淳演じる鉄彦の叔父が、最後にはウイルスに感染して死ぬのだろうと示唆されるし、彼を嬲り殺した村民たちもおそらく感染は免れないだろうから村の崩壊は決定的で、暴力に頼った者たちがことごとくしっぺ返しを食らうのに、底辺の暴力行為を行ったあのクズ野郎が映画内で断罪されないことに憤りを感じましたね。

まぁそこら辺も含めてディストピア的寓話ですよ、ってことなのでしょうが。当の結がノクス化して「スッキリ」したからもういいのかな?(よくない。)

 

あと、よくわからなかったのは鉄彦の母親はどこで誰から感染したの?風邪みたいに簡単に罹患するの?それとも血液以外にも感染経路があったの?てっきり序盤のワクチンブォーでノクス側が村人をわざと感染させて、村を壊滅させるつもりなのかと踏んでましたが違ったみたいだし。

それから、門番が一人体制で監視カメラもなく、しかも門の外側で警備してるって、危険過ぎやしませんか?金網に電流でも流れているかと思いきやそんなこともなかったしね。

そうそう、終盤腕を斬り落とした森繁が、力尽きて死んだのかと思ったら次のシーンで問題なく復活していたのには呆気にとられました。てか寝袋程度で日光遮れるなら防護服とか着とけよ!

 

 

…と、いろいろと不満も書いてしまいましたが、決してつまらないわけではないです。メッセージ性は強いと感じましたし、あと映像もね、ススキ野原や山際から昇る朝日はきれいだったし、森繁の手錠からの終盤の展開はドキドキハラハラしました(サイレンがまた緊張感を煽る!)。

ラスト、鉄彦と森繁が乗った中古車が荒れた草原を行く終わり方も、ちょっと画的にあざといけど(笑)わたしは好きでしたね。

 

旅に出た鉄彦と森繁が何を見、何を思うのか。どうかその先に希望が待っていますように。

 

 

多分、映像で観るより文章や舞台の方が合っているのだろうと思います。小説版、気になります。

太陽

太陽

 

 

 

 

作品情報
  • 監督 入江悠
  • 原作 前川知大
  • 脚本 入江悠、前川知大
  • 音楽 林祐介
  • 製作年 2015年
  • 製作国・地域 日本
  • 出演 神木隆之介、門脇麦、古川雄輝、綾田俊樹、村上淳、中村優子、古舘寛治