あらすじ
怪しい新興宗教を調べあげその悪行を告発している牧師のパクは、宗教団体「鹿野苑」に目をつける。一見すると善良な市民たちによる慎ましい仏教系の教団に見えたが、調査するうちに数々の謎が明らかとなる。
同じ頃、国内で女子中学生の不審な他殺体が見つかり、その容疑者が鹿野苑の一人と判明する。しかし容疑者は逮捕寸前で自殺してしまう。
一方、寒村の外れに引っ越してきた一家の離れ小屋からは、夜毎不気味な泣き声が響き渡り…
ヘロデ王の幼児虐殺をモチーフにした韓国のオカルトスリラー。
宗教大国韓国が生んだ新たな傑作!
わたしは完全なる無宗教信者(って言い方もおかしいけどこの方がしっくりくる)なんですが、宗教色の強い映画や小説はとても好きなんですね。ちなみにわたしは文学部だったんですけど、卒論で遠藤周作を選んだくらいには宗教絡みに心引かれます。
ただ、あくまでも好きなのは「モチーフとしての」宗教なんですよね。説教のような教義っぽい作品はそんなに好きじゃない。塩狩峠とか。
その点本作は、宗教色はめちゃくちゃ強いんだけど、ある種の「飾り」としての側面もあり(エヴァのキリスト教みたいな)、そのバランスが非常に良いんですよね。
しかも、モチーフとなったヘロデ大王のエピソードは新約聖書で、そのエピソードをなぞる新興宗教は日本伝来の密教のエッセンスもある仏教系で、それを追うのはキリスト教の牧師、その彼の口からムスリムやオウム真理教について語られる…というごった煮オカルト感。それが並列に存在しているという世界観がほんと面白くて、宗教大国韓国の懐の深さを見せつける怪作だなと思いました。
物語の転を担うチベット密教の高僧を、日本人の俳優田中泯が演じているのも興味深かったですね。ちょっとだけダンスも披露してくれてます。
監督のチャン・ジェヒョンは前作でもエクソシスト映画を撮ってましたね。気合いの入った悪魔祓いシーンは必見。
おおまかな話の筋としては、牧師が新興宗教(カルト)の秘密を解明していくミステリーなんですが、そこに教団の活動家、刑事、謎めいた少女…とさまざまな視点が絡んで途中まではまるで群像劇のような様相を見せます。そのそれぞれの謎の点と点が、クライマックスに向かって繋がっていく構成は見事としか言いようがなく、おそらくこれ、わたしの今年のベスト10入りは確実です。
多分ここ5年くらいの間に観た韓国映画の中でもベスト3に入ると思います。かなり好きです。
韓国映画で宗教ネタで…というと、2016年の大傑作『哭声コクソン』を思い浮かべますが、
あちらのような思わせ振りや難解さは皆無で、ちゃんときれいに終わりますし、しかも本作の方が普遍的で示唆に富んでいます。「宗教で人は救えるのか?」という根元的な問いを投げかけ、なんとかそこに答えを出そうとしている。その真摯な姿勢にとても好感を持ちました。
そこには「神は本当に存在するのか?いるならなぜ姿を見せないのか?自分の信じる神は本物なのか?」…という信仰心の揺らぎと葛藤といったものも内包されており、その辺りは遠藤周作の『沈黙』に近いものがありますね。
また、映像表現にエンタメ性がしっかりと見られるのも素晴らしく、開始2分で空に浮かぶ胎児のビジュアルを観た瞬間に「あ、これ傑作だな」と思いましたね(そこにかかるセリフも良い!!)。いわゆるオカルトホラーとして楽しめるビジュアルも多く、怖がりなわたしは何度か背筋が冷やっとしました。
ちなみにタイトルの「サバハ」とは、漢字で書くと「娑婆訶」。「物事が円満に叶う」という意味のサンスクリット語で、祈りの最後にくる言葉なのだそう。キリスト教でいう「アーメン(そうなりますように)」ですね。(序盤でこの言葉が使われるシーンはかなり愉快)
そして新興宗教「鹿野苑」のモチーフである鹿は、仏教では「不老長寿」意味していて…、おっとこれ以上言うとネタバレになりそうなので自粛。
是非映画を観て、数々の謎に触れていただきたいと思います!
ほんと、おすすめです!!
以下ネタバレ~
そこに神はいるか
あらすじに書いた通り、本作は『マタイによる福音書』にある「ヘロデ王の幼児虐殺」をモチーフにしています。
軽く説明すると、「新しい王(イエス・キリストのこと)が生まれたらしいよ」と聞いたユダヤの王ヘロデが、「やっべ!俺の地位やっべ!けど誰かわかんないし、とりあえずその頃その場所に生まれた子全員を殺しとけばいんじゃね?」(軽い)とひたすら子どもを殺しまくった、というエピソード。
主人公が追っていたカルトがまさにこれと同じことをやっていた、というのがクライマックスに判明します。
そして本作の面白いところが、主犯(といっていいのか?)である教団の幹部が、「本物の」不死者=弥勒菩薩だったという点。カルトの仕業かと思ったら、まじの神だったという驚きの結末。そこまでのミスリードも含めて謎解きの構成がほんと鮮やかで、単純なわたしはまんまとだまされ「うわ~やられた!」となりました。
そんなカルトの教祖であるキムはまさに権力に固執したヘロデ大王と同じく、「自分を殺す人間が現れる」と聞いて自身の不死が脅かされると焦り、人を使って該当する少女たちをひたすら殺していたのです。
そんな少女殺害という汚れ仕事を「善行」だと信じて遂行してするのは、「四天王」と呼ばれる男性たち。彼らは殺した子どもたちの悪夢にうなされ、「これは本当に正しいことなのか?」と自問自答しながらも、父の教えから逃れることはできない。だってそれを失ってしまったら、自分は選ばれた人間ではない、ただの前科者に戻ってしまうから。彼らが選ばれたのは父親殺しで父性を失っていた隙につけ入りやすかったからだけのことなのに、それにすがってしまう悲しみ。
最初の方で「オウム真理教」について言及するシーンがありますが、この精神状態はまさにあれと同じ洗脳です。
善のために行う悪は正しいのか。
それを指示する者は本当に神なのか。
何が正しくて、何が悪なのか。
揺らぎながらも彼らに残されているのは「信仰」しかない。
そしてこの葛藤を抱えているのは、実は主人公であるパク牧師も同じなんですよね。
「クリスマスは楽しい日か?…イエスが生まれたことで多くの子どもたちが殺された、悲しい日だ」とパク牧師は語ります。
一方にとっては善でも、他方から見たら悪。
この視点は、宗教の抱えるジレンマでもあります。宗教の数だけ正義があり、立場が変われば祈りは簡単に呪いに変わる。
パク牧師はキリスト教を信仰していますが、そんな宗教の矛盾から「神」への猜疑心を拭い去ることができない。友人の家族がムスリムの少年に殺されたことを引き合いに出し「人間が苦しんでいるのに神はどこで何をしているのか」と思い巡らします(もしかしたらこれは彼自身の話だった可能性もある)。けれど、「主よ」と呼びかけることをやめられない自分もいる。
そんな迷いを抱えるパク牧師は、常に物事を多角的に見つめている。
だからこそ教祖キムが「本物」の不死であることをすんなりと受け入れる一方で、そこにある欺瞞も敏感に感じとることができたのだろうし、少女殺しを「善行」だと信じていた青年ナハンを結果的に「救う」ことができたのだろうと思います。
彼は侮られて人に捨てられ
旧約聖書のイザヤ書52章から53章にかけて、以下のような記述があります。
多くの人が彼に驚いたように―彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである―
(中略)
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
これはいわゆる「主の僕(しもべ)」について書かれた箇所で、イエス・キリストを預言しているともいわれています。
女子中学生クムファの双子の姉はその異形から産まれたときから「悪鬼」として忌み嫌われ、出生届が出されることもなく、家の離れに鎖で監禁されています。「侮られて捨てられ」た状態です。6本指を持つその少女の正体は終盤で明かされますが、その真の姿は弥勒菩薩そのもの。(「はじめて血を流す日」=初潮をトリガーにして覚醒したような描写があります)
また彼女は、自分を殺しに来たナハンに正体を問われ「私は泣いている者だ」「お前たちが血を流す時、共に泣く者だ」と答えています。これは聖書の一番短い一節として知られるヨハネの福音書11章35節「イエスは涙された」や、新約聖書ローマ信徒への手紙12章にある「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」を彷彿とさせます。
彼女は、見た目は御仏ですが、モチーフはキリストです。また蛇を従えている姿はインドの神様シヴァのようでもあります。あらゆる宗教の神様そのものの具現化、とも言えます。
一方の教祖キムは立派な、頼りがいのありそうな男性の姿をしており、誰もが「本物だ」と認めるほどの神々しさも併せ持っていた。けれど、偽りの経典を記し、自らを「灯火」と称して崇めさせ、生への執着と他人の命を犠牲にすることも厭わないその姿は「煩悩」そのものと言えます。
ただ厄介なのは、教祖キムにも彼の信念があるように見えるところ。時折目に涙を浮かべる姿は決して悪人のようには見えない。きっと彼は、自分が世界を善くすると本気で信じていたところもあったのでしょう。しかし、そのために罪のない子どもたちを殺させることは、やはり悪であると断言せざるを得ません。
そして残念ながら、彼と同じように、神の名の下に人の命を奪う者たちは世界中であとをたちません。
何かを信じるということは、自分の見たい世界だけを見るということでもある。それによって救われることもあるし癒されることもある。でもその世界が揺らいだときは、それに固執する前に、自分の良心にしたがってその世界を見つめ直してみるべきだと思うのです。
「何を」信じるかではなく、「どう」信じるか。
それが大切なことなんじゃないかなぁ、なんて、無宗教信者のわたしは思いますよ。
ちなみに、前述のイザヤ書は後にこう続きますきます。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
もしかしたらあの少女のように、世界のどこかでわたしたちの悲しみを担って泣く誰かが、わたしたちの代わりにその命を捧げているかもしれない…。
パク牧師は最後「主よ、我らをお忘れですか?どこにおられるのですか?」と主に呼びかけます。けれどその声が主に届くことはない。
それでも、彼は主に問いかけ続けることをやめないでしょう。彼はジレンマを抱え猜疑心に苛まれながらも、神を信じているからです。だからこれからも偽物の宗教を暴き続ける。いつか「本物」に出会えると信じて。
是非また、監督にはその活躍を描いて欲しいなと思いました。
今日のオチ
と、そんな宗教色の強い本作。日本ではNetflix配信ですが、韓国では劇場公開され、その週のボックスオフィスランキングで1位となったそうです。その後もしばらくベスト3に入ってたようで。
韓国エンターテイメントポータルサイト KOARI(コアリ) / コラム
イ・ジョンジェとか人気の俳優さんも出てるからかとも思うんだけど、こういう映画でも流行る韓国の宗教観ほんと面白いなーと思いました。
で、ふと気になって、じゃぁその時の日本はどんな映画が流行ってたのかなぁ?と調べたら、3位に『僕の彼女は魔法使い』が入ってて、膝から崩れ落ちました。そうだった、日本にもO川R法様とかIK田D作大先生がいるじゃん!
この国も他国に負けず劣らずの宗教大国だと思いました。まる。
作品情報
- 監督 チャン・ジェヒョン
- 脚本 チャン・ジェヒョン
- 製作年 2019年
- 製作国・地域 韓国
- 原題 Svaha: The Sixth Finger
- 出演 イ・ジョンジェ、パク・ジョンミン、イ・ジェイン、ユ・ジテ、チョン・ジニョン、田中泯